※どこまでがOKでどこからがダメかは時と場合、媒体によって変わります。この記事では、学校(授業)内においてある程度一般的と言える範囲をベースに、一般論も交えて説明します。具体的なラインはその都度先生や会社などに確認してください。
今回のまとめ
どうしてWikipediaを参考文献に書いてはいけないの?
→一般的には「間違っている(かもしれない)から」と言われる
でも本や論文だって間違っている可能性はあるよね?
⇨つまりそれが一番の理由じゃない
本当の理由は「足跡」をつけるため
→どういうこと?
正しい論文(レポートや発言含む)とは、「正しく批判できるようになっているか」
そのためにはっきりとした道筋を示さなければならない
→Wikipediaじゃ示せないの?
Wikipediaは言わば「砂漠」。足跡がはっきりと残らない
でも砂漠はとても広大
⇨「知る」ためならとても有用
=インプットのための道具であり、アウトプットの道具じゃない
なぜWikipediaがダメか、説明できますか?
皆さんも人生で一度・・・どころじゃなく最低100回程度は「参考文献」って書いたことありますよね?レポートや論文、本の最後にある「あれ」です。「参考」「参考資料」「参考図書」「引用元」・・・などの場合もありますが。あれを書くときに一度は耳にするセリフ
「ウィキペディアは参考文献に載せるなよ~」
言っている張本人、教師の皆さんも読んでいるかもしれません。私自身よく言いますね。
レポートなどを書く際、参考にするものは豊富にあります。本や新聞に止まらず、雑誌や省庁・企業のホームページ、個人のサイトなど挙げだしたらきりがないくらい、現在ではあふれています。さすが情報化社会。
でもいざ引用する際、もしくは参考文献リストを作成する際、思ったことはありませんか?「どこまで書いていいんだろう?」
参考にしたのに書かないものがあるなんて変な話ですが、実際には引用や要約など、具体的に本文に反映させたもののみ書けばいいので、情報集めに読んだだけのものは基本的に書かなくてOKです。
※その線引きは慣れないと難しいので、分からなければ相談しましょう。「通説」ではなく「説」を紹介するときは要注意!
大雑把に言えば、引用したものだけリストに載せればいいのです。
※引用しないでパクればいい、ということじゃないよ!一般常識ではなく、その人しか知り得ない情報や意見を書く場合には必ず引用しましょう。
そうすると次の疑問が。
「引用していいのはどの媒体までだろう」
実はこれが、参考文献に載せるか否かのラインということになります。
つまり、「Wikipediaは載せるな」と言われたら、Wikipediaから引用(要約)してはいけない、でも知識を得るために読む分には構わない(ウィキに限らず鵜呑みは禁物)、ということになります。
OKかどうかの線引きは正直その都度変わります。論文は最も厳しく、個人サイトはもちろん雑誌(学術雑誌除く)もダメ、ということもあるかもしれません。まあ逆に必要性を証明できれば個人サイトでもOKなものもあるかもしれませんが。でもレポートなどでは緩いものも多く、大体何でもいいよというものもあるかとおもいます。
しかし禁止事項があるならば、最初に挙がるものはおおむね共通しています。それがWikipediaです。
では、なぜダメなのか、あなたは説明できますか?
「Wikipediaは間違っているかもしれない・信憑性が低い」?
理由として、「Wikipediaは間違っているかもしれない・信憑性が低い」という説明をしたり、受けたりした人がいるかもしれません。
確かに、ウィキペディアは誰でも編集することができます。専門知識を有する人が書いたのであれば信用できますが、大して知識のない人物が書いた場合、それは間違っているかもしれません。
そして、参考にしたものがそもそも間違っていた場合、その上に立つ自身の意見は土台から崩れ去ることになります。そのため、参考元の信憑性は死活問題ともいえ、この説明はもっともらしく感じられます。
なら、他のものは信憑性に問題はないのでしょうか。
個人サイトは本当にウィキペディアに信憑性の面で勝っていますか?それこそサイトによりけりでしょうけど、負けているものも結構あります。いや、自分でブログを書いておいて言うのもなんですが、負けているものの方が多いのではないでしょうか。チェックも「個人」(とせいぜいコメントしてくれる人たち)だけで行っているので、どんな人たちか分からないとはいえ、多くの人の目にさらされているウィキペディアの方が、少なくとも数の上では勝っています。
では雑誌は?それも雑誌によりけりですが、週間○○が芸能人のゴシップを書き、それが事実と異なっていたために訴えられる、なんことはよく聞く話です。
じゃあ本や新聞、論文は?
新聞と本を同じように扱っていいかは別として、信憑性の高低で言ったら確かに高いのかもしれません。何人もの専門知識を持った人たちがチェックしていますしね。でも新聞の誤報なんて言うのもまあある話ですし、学問の世界では数年前の通説がひっくり返されたなんてことはしょっちゅうあります。ということは、通説を前提に書かれた本は全部間違っていることになりますよね。
つまり、どんなに信憑性が高かろうが、間違える可能性が低かろうが、完全に信頼できる、間違えないものなんて存在しないのです。
であるならば、「Wikipediaは間違っているかもしれない」という理由は少し弱くありませんか?その理由が完全に間違っているとまでは言いませんが。
前提―情報発信の手順―
大学を出た人の多くは、卒業論文を書いたと思います。論文とは研究によって導き出された新たな意見・知見を報告するものですが、ごく一部を除いて一介の大学生に、そんな新説が提唱できると思いますか?博士や修士ならいざ知らず、学部生にはさすがに無理でしょう。というか私には不可能でした笑
ということは、卒業論文には別の目的があると考えていいでしょう。そしてその目的こそが、Wikipediaがダメな理由に深くかかわっていると私は思います。
では卒論の目的とは何なのか。それは、論文の体裁を学ぶこと、だと思います。
具体的には、先行研究である他人の論文をいくつも読み、自らも書いてみることで身をもって論文の書き方を学ぶ。論文の書き方を通して、情報発信における正しい手順と姿勢を学ぶ、ということです。
社会人になってから論文を書く機会はほとんどないかと思いますが、何か報告をしたり、意見を求められたり、自ら考え実行したりすることに関しては、毎日のようにしているのではないでしょうか。そしてそれらは全て、情報発信なのです。
※自ら考え実行することは一見情報発信していないように見えますが、思考と実行の間に行う発信を省略しているだけで、最終的に実行することを通して発信されます。「結果で語る」というやつですね。
では正しい情報発信の姿勢とは何でしょうか。
正しい姿勢とは、「正しく批判されること」です。正確には、批判を受け入れる心構えと態勢ができていることです。心構えは個人の問題なので置いといて、態勢とは具体的に何か。それがずばり手順です。
論文の手順というぐらいだからさも複雑なんだろうと思うかもしれませんが、構造自体は非常にシンプル。結論に至るプロセス、具体的には仮説、先行研究、方法、実験や情報分析(根拠)、思考。これらを明確に示すことだけです。何をもとに考え、どうやって結論までたどり着いたか誰にでもわかりやすく提示するだけです。
良い論文とは、批判を受け付ける隙もない、有無も言わせないものだと思っている人がいるかもしれませんが、それは勘違いです。本当に良い論文とは、書いた人と同じ手順を踏んで同じ経験をすることができ、その結果誰でも同じ結論になる、というものです。それは批判を受け付けないのと似ているようで正反対。結論に少しでも不満を感じたら、書いてある通りにやってみればいい。使ったデータに問題があるのか、方法に問題があるのか、検証・研究・分析何でも可能です。その結果行う具体的な指摘が「批判」です。
さて、この「プロセスを明確に示す」ことこそが、Wikipediaがだめな理由とつながるのです。
Wikipediaがダメな本当の理由:責任の所在
情報発信にプロセスの明示が必要なことは先に触れた通りですが、それが参考文献とどう関わるのでしょうか。
実は、関わるなんて間接的なものではなく、直接的な話です。つまり、参考文献とはプロセスそのものなのです。
どの著者のどんな研究・文献の、どの部分を読み、それをどう使ったのか。どこを大事だと感じ、結論に至ったのか。その全てが、参考文献として表されます。
あなたが参考にした文献にも、同様に参考文献は書かれています。そのまた参考文献にも・・・キリがないように感じられますが、その果てしない道筋がそのまま学問の成果でもあるのです。つまり参考文献は、その長い道筋の途中に置かれたマイルストーンということになります。
ところが参考文献の中にWikipediaがあると、道が「迷いの森」に突入します。どういうことか。
確かに近年、Wikipedia中の参考文献もかなり充実してきましたが、それでもまだ不十分。仮に数が十分だとしても、それがどのように使われたか分からない。なぜなら、誰でも匿名で編集できるからです。IDやログから編集履歴をたどることは不可能ではないかもしれませんが、それで分かるのはいつ誰が何を書いたかだけです。何をどう使って書いたかはわかりません(Wikipediaにいちいちそんなこと書かれていたら読みにくくてたまりませんが)。テレビで見ましたが、コアとなっている執筆者たちは相当真面目に取り組んでくださっているようです。しかしWikipedia自体の構造として、無償の善意を前提としているため、結果的に内容や執筆行為に対する責任の所在がはっきりとしておらず、誰の責任で書かれた記事なのかが分かりません。それにより出どころの分からない(or分かりにくい)情報となってしまうのです。分析・検証の観点から見ればこれは最大の障壁で、信憑性に劣る個人サイトの方がまだ責任の所在が明らかな分マシということになります。
この責任の所在の不明快さが、Wikipediaを参考文献に書いてはいけない真の理由なのです。
まとめ
論文やレポートに限らず、情報発信には批判が付き物です。「批判」は負のイメージが強いかもしれませんが、おそらくそれは「非難」等とごっちゃになっており、実際はより良い方向へ向かうための、つまり改善のための指摘なのです。
そして批判するためには対象について正確に分析・検証しなければなりません。その対象が文章なら、誰がいつ何を使ってどのように書いたかなどを細かく読み解かなければなりません。無償の善意で運営されている代わりに責任の所在がはっきりしないWikipediaと、正確な分析とでは、相性が悪いのです。Wikipediaが情報発信の根拠になり得ないのは、そういう用途に用いるものとして作られていないからなのです。
何度も言うように、Wikipedia自体は何も悪くありません。情報受信のツールとしてはかなり有用であると思いますし、私自身よく使います。どんな道具にも使い方や使い所があるように、インターネット上のツールも使い方や使い所があります。
今の時代プログラミング学習も必要かもしれませんが、同時にweb上のツールの使い方なども含めたネットリテラシー(SNSとの向き合い方だけに終始しないで)の教育を進めていくべきだと思います。
以上、学生に向けては理由の解説、自分を含む教師に向けてはネット教育の反省・改善の記事でした。
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