【批判】いえ、それは「非難」です。ネットニュースによくあるフレーズ

今回のまとめ

正しく「批判」してる?

→多くの人が「批判」という言葉を間違ってorよくわからないまま使っている

ネットニュースでも!

「批判」の意味は?

→改善のために誤りや欠点を指摘したり、検討を加えること

ポイントはそれが「改善のためか否か」という点。

→これがない場合は?

→それが「非難」それに人格否定が加わると「誹謗・中傷」

誹謗中傷は論外として、「非難」はしてはいけないわけではない

けれども、生産性が低いのに言われた人をイラつかせるので、批判の方が良い

自分の発言に責任を持つというのは批判を受け入れるという意味でもある

正しく「批判」し、また正しい批判なら受け入れよう!

ニュースまでもが「批判」を正しく使っていない件について

私は言葉遊びは好きだけど標語は嫌いというめんどくさいタイプの人間です(嫌いなのは、標語自体じゃなくて標語を語りながら本質を理解していない人か。「ホウレンソウ」とか)。

そんなことはどうでもよかったりよくなかったりしますが、今回のテーマはこれ!

批判

です。

最近どうも、世の多くの人が「批判」を正しく使っていない気がしてなりません。いえ、言葉を正しく使っていないことは大きな問題ではないのです。実際にしていることは「批判」ではないのに「批判」した気になっている、「批判」の重要性を説いていることが問題なのです。

芸能人・著名人、会社の上司・部下、社会の様々なところであふれている「批判もどき」。それ、もしかして「非難」じゃありませんか?いや、ただの「文句」?まさか「誹謗中傷」じゃないでしょうね。

最近ネットニュースでもよく見かけます。「○○氏が△△と批判した」

追加調査も情報もなく、筆者の見解(意見というより分析)すらないので、そもそもこれはニュースか?とも思うのですが(それはいつか別記事で)、その記載内容すら、「批判」の意味を誤解しているせいで、間違いを生んでいる、いわば誤報となっているものがものすごく多いです。いえ、そんな記事が大半といっても過言ではありません。まあコロナの影響でまともに取材できないからでしょうけど。

では、何が間違っているのでしょうか。

「批判」とは

デジタル大辞泉によると、「批判」とは

物事に検討を加えて、判定・評価すること。

人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。

とあります。

「人の言動や仕事などの誤りや欠点を指摘する」という点に注目が行きがちですが、それは「批判」の本質ではなく、より良い方向へ向かわせることこそが「批判」の本質なのです。

そのための「検討」段階において、欠点の指摘があるのは事実です。ですが、それはあくまで一面でしかなく、場合によってはよい評価も含まれる。それは①の「判定・評価」の部分にも表れています。

また、「批判」の本質である、より良い方向へ向かわせることを「目的」とすると、検討に含まれる欠点の指摘は、「手段」のひとつでしかないということが言えます。

つまり、「批判」というからには、どれだけ欠点を指摘しようが、「改善のため」というのが前提になければなりません。

「批判」じゃないなら何?「非難・文句・論破・誹謗中傷」

残念ながら、世に多く出回る認識では「欠点の指摘」が独り歩きしており、欠点を指摘してさえいれば批判したことになってしまっているのが現状です。

では、それらは批判でないなら何なのでしょうか?

例えば欠点や過失などを取り上げて責めるだけなら「非難」になります。

私の嫌いな言葉の上位ランカーである「論破」は、この「非難」の延長線上にある言葉でしょう。「非難」よりも明確に対戦という構図が浮かんできますが、これの厄介なところは、必ずしも両者の認めたルールに則っているとは限らない、という点にあります。偏見かもしれませんが、「論破」と言いたがる人種は往々にして自ら勝手に議論を吹っかけていき、相手の準備が整う前に立ち去っていくという、一種の「当たり屋」ではないかと思います。私の人を見る目が確かだからか、単に幸運だからかは分かりませんが、私の周りにはいません。あー良かった。でもネットには「当たり屋」多いですね。いや、目立つだけか。

また、検討が加えられていない、つまり、意見を言っている本人が、自分に降りかかる被害の不満をぶちまけているだけで、実際にどこに問題があるのか指摘できていない場合、これは「文句」と言えるでしょう。別の言葉も当てはまるかもしれません。

「馬鹿」だの「死ね」だのを含むようでは、論外です。「批判」のひの字もありません。それを「誹謗中傷」と言います。あ、「ひ」の字はありましたね。

もう少し解説を加えると、関係性によっては「批判」として成り立つ可能性もあります。「バカだね~」とか、大阪人の「アホ」とか、言い合っても問題のない間柄に限って、「批判」になりえます。というのは、冗談や親しみと認識すれば、それらの言葉にいちいちイラっとしないからです。逆に言えば、言われた側がイラっとした時点で「批判」たり得なくなります。

ポイントは、先ほど述べた「改善のため」という前提です。普通「馬鹿」などと言われると、どんなに指摘自体が正しくても、「改善」よりも「反発」したくなります。もしくは純粋に傷つく。その時点でより良い方向とはズレてしまい、「批判」と呼ぶに値しなくなります。

あらためて身の回りにある「批判」を見つめてみてください。テレビ、ネット、自分の発言。はたしてそれらは本当に「批判」でしたか?

「非難・文句・論破・誹謗中傷」をしてはならないのか

ここまで読み進めていただければ、「批判」とそうでないものの違いはご理解いただけたかと思います。そうでないなら私の説明力不足です。

でも、こうも思ったかもしれません。「批判でなければしちゃいけないの?

答えとしては、「別に問題はない」と言わざるを得ません。まあ誹謗中傷はダメですけどね。明確に人を傷つけるものでない限り、「表現の自由」として認められています。不満を自らの胸の内に秘め、悶々とした日々を送るよりは、表現して誰かに聞いてもらった方が精神衛生上良いといえるでしょう。

ただし政治的発言のような広範囲に影響するレベルのものの場合、言葉の違いを認識したうえで発信するべきでしょう。

受け取る側からすると、それぞれの言葉の違いを明確に認識していなくても、「なんとなく」違うニュアンスとして感じられます。

例えば「誹謗中傷」

受け取る人の多くは、そもそも発信者の人格に問題があるように感じてしまい、発信内容にまで注目しなくなります。過激なことに飢えている一部の人々以外には一切届かないと思って間違いはないでしょう。

例えば「文句」

正直しないよりは効果があります。いくらネット上であっても、近年は政治家も無視できないようです。そしてキャッチーな文句ならばそれは「謳い文句」となり、旗頭として使われることはあるかもしれません。しかし、「文句」は基本的に「数」として扱われます。なので、多くなければ政治上一切の価値を持ちません。いくら有名人であってもです。「○○さんも庶民的な感覚をお持ちなのね」となれば御の字。庶民の多数派とズレていたら炎上ものです。

※だからといってしちゃいけないという訳ではないよ!リスクが高いだけ。炎上はそもそもさせる側が悪い!

「非難」の場合

例えば「非難」

ここまでくると、論点を絞った指摘ができているという時点でかなり内容に価値が出てきます。受け取る側も内容に注目するようになります。例えば私のような一般人の非難が国を動かすことはまれでしょうが、有名人の非難でかつ的を射ているようなら、政治的に大きな意味を持つでしょう。

そして、論点を絞っている分、返ってくる反応も「非難」か「批判」になります。「いや、返ってくるんかい」と思うかもしれませんが、それは問題ない、というかむしろ民主主義として正常な世の中です。民主主義において(もしくは学問において)まっとうな議論とは批判が自由に行えること、まっとうな意見とは誰でも批判ができるよう思考の道筋が公開されていることです。多少傷つくかもしれませんが、「批判」には真摯に向き合い、まれに来る「誹謗中傷」は取り合わず無視しましょう。

また、「非難」は野党の質問にも多く見られます。「質問」の形をとりながらただ「意見」を言っているだけというのは置いといて、内容としては結構ズレていることも多いのですが、たまには鋭い正論もあります。でも揚げ足取りにしか聞こえないのはなぜでしょう。有名人が「非難」をして、「ああ、鋭いな」と思いながらも何か引っかかる思いは何なのでしょう。

「非難」と「批判」の違い

先ほども言ったように、「非難」と「批判」の違いは「改善のため」という前提があるかないかです。

であるならば、改善策はあってしかるべきであろうと思います。

より良くするために欠点を指摘するのならば、じゃあどうすればいいかもセットで言ってよ、それが人情じゃん、という話です。

改善策がなくても批判になり得ますが、なる可能性、つまり「批判」と受け取られる可能性はぐっと下がると思ってください。なぜならば、鋭い指摘はそれだけでイラっとする、もしくは傷つくものだからです。それでも、どうすればいいかという改善策さえあれば、学びがあったと納得することもできるのですが(あー卒論・修論報告会思い出す・・・いやその記憶は断捨離したはずだ)、提示されないとなると、「お前が言うな・揚げ足取るな」という思いが芽生えてしまい、改善は見込めません。多くの人に「改善」という方向性が認識されないのならば、いくら発信者が「批判」だと主張したところで、そうとは受け取ってもらえないでしょう

改善策が提示できないのならば、せめて「責める」姿勢を極力見せないようにしましょう。問題点は分かってるんだけど、それをどうすればいいのかまでは分からない。そんな人が他人を責め立てるのはやりすぎだと多くの人は思います。ならば、指摘するまでで止めておき再考を促す。自分のできることと領分をわきまえている人は、ただ吠え散らかすやつよりも、賢く信頼のおける人物だと認識されやすいでしょう。

正しく「批判」を使ってよりよい社会人に!

何度も言うように、「批判」以外はしてはならないということではありません。「批判」がより高度であることは事実ですが、場合によっては例え「非難」としか受け取られなかろうと、強い指摘が必要なこともあります。まとめると、言葉の意味を正しく理解し、自分のやりたいことと実際の行動が一致していることが重要なのです。

確認ですが、「批判」かどうかは「改善のため」という方向性が示されているかどうかです。

最近ネットニュースでよく見かけるフレーズ「○○氏が△△と批判した」。ネットニュースの筆者(記者とは言いたくない。特にこういうレベルの記事のは)には、伝えるものの責任として当然正しい言葉の使い方を学んでほしいものですが、「非難」が「批判」の服を着せられ世にあふれているのは事実です。

とするならば、受け取る側が正しく「非難」か「批判」かを見分け、どちらであったとしても、自分ならどのような解決策を提示するかを考えるのが、情報社会におけるより良い社会人なのではないでしょうか。

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