あなたは本当に「正しく」ニュースを読めていますか?「テレビは嘘ばかり」と言う人ほど読んでください。
いきなり定義づけですいません。ここでいう「読む」というのは文章だけに止まりません。テレビ、新聞、本、ネット、ラジオ等から情報を受け取ること全般を指します。
さて、あなたは本当に正しくニュースを読めていますか?
そう言われれば自信がないな。最近新型コロナウイルス関連のニュースが多くて、結局どうすればいいか分からないな、という人も多いと思います。
※この記事で「コロナ」に関して何か結論を出すことはありません。が、結論を知りたがる人こそ読んでほしい内容ではあります。
一方で、全く問題ないという人も一定数いるのではないかと思います。それは結構なことなのですが、このような人は要注意です。
「テレビは嘘ばっかだしコメンテーターもレベル低いから観ない」
ツッコミどころはいっぱいあるけれども、大枠の内容自体は、ニュースを正しく読めるという自負のある人の多くが共感するところだと思います。私も似たようなことを感じないこともありません。
が、もう一度言いますが、このような人は必ず最後まで読んでください。なぜなら、あなたの「姿勢」に問題があるからです。背筋が伸びてないとか物理的な姿勢ではなく、また道徳的な話でもありません。態度・向き合い方と言い換えた方が良いかな。
そのような姿勢では「正しく」ニュースを読むことができませんよ、ということです。いや、より正確に言うならば、「正しくニュースを読む」とは姿勢そのもののことです。
じゃあ「正しさ」とは何か。情報を誤解なく受け取ること?偽情報に惑わされないこと?そのどちらも大切ですが、小さいこと(この場合は個別具体的なニュース)に目を向けすぎです。
例えば、「コロナ」に関するニュースの真偽はいつ、どのように分かりますか?明日?数年後?どの立場からの判断ですか?試しに「緊急事態宣言」に関するニュースの主語を「日本国」「大手企業のサラリーマン」「居酒屋店主」に変えてみてください。受け取り方は大きく変化すると思います。
間違いなく真偽は存在しますが、ニュースとはnews、つまり新しいことばかりなので、今を生きる私たちにはリアルタイムで真偽を判定することができないことがほとんどです。できるのはせいぜい、過去にあったできごと(学問・研究もこれに含まれます)との類似性から判断することぐらいです。
だから個別のニュースに対し真偽を判定するのは意味がない、とは思いません。今分からなくても知ろうとすることが将来分かることにつながりますし、何よりも私たちが行動を起こすのは「今」なので、できる限り正しい情報を求めるのは必要なことです。
「真実」に対して誠実であろうとするのは当然として、では「正しくニュースを読む」とはどういうことか。
間違っている可能性を織り込み済みで受け取り、考え、行動すること
だと私は思います。
もう少し端的に言えば、批判的思考を常に持ち、納得して行動しろ、ということです。
ニュースを読むうえで重要なことは「批判的思考」と「納得」の2点なのですが、以下ではその前提となる事実と、具体的にどうすればいいかというポイントを説明します。
ひとつの前提・・・「客観性」などない!
先ほどは真偽を例に出しましたが、ニュースを読むうえでもう少し根本的な前提があります。それは、
「客観的」など存在しない
ということです。いや、すいません。少々表現が乱暴でした。訂正します。神様や無関心な第三者でない限り、客観的な報道・意見は存在しません。・・・あんまり変わりませんか?
報道機関等は「より・比較的」客観的ですし、またそうあろうとし続ける必要がありますが、そのような責任や目的の一方で、「完全な客観性」を実現することは現実的に不可能です。
念のため、「客観的」という言葉を辞書で調べてみましょう。大辞林によると
①主観または主体を離れて独立に存在するさま。
②特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。
とあります。
個人はもとより、メディアという会社も「主体」であり特定の立場があります。何かを発信するにあたり、まずはそれを観測しなければなりません。そのためには「目」が必要です。誰の目ですか?自分、もしくは会社に所属する特定の誰かの目です。情報を整理・分析する脳は?発信する口は?当然特定の誰かです。その誰かはどこに立っていますか?それが「立場」です。できるかぎり主観を排除しようとしても、これだけ介在する余地があるのです。
なんなら、ある「立場」によっては、主観を排除しようとすらしないかもしれません。これが世間でよく言われる「A社は政権と近いから○○」「B社は左寄りだから△△」というようなものです。もちろん法律がありますから、あまり勝手なことはできません。ですが、批判的な「説」ばかり報じることや、意図的に報じないぐらいのことなら全然ありうることです。
だからメディア(ここではテレビ・新聞など)はダメだ、ということではありません!
特定の誰か(例えばホリエモンなど)しか信じない!というのはもっての外です。ちなみに個人名を出してしまって申し訳ないのですが、彼が悪いということではありません。むしろ、共感する発言もあるくらいです。「信者」になるなよって話です。
何が言いたいかというと、世の中「0か100か」で考える人が意外に多いのですが、むしろ「0と100」は存在せず、「1~99」のいずれかに収まる、ということです。
まだ回りくどいですね。
「100%信じるな!100%疑うな!」
とするとシンプルになりますね。前半部は、どんなメディア、特定の個人、自分の意見ですら、最低1%は疑わなければならないということです。これが先ほど述べた「批判的思考」です。
それは分かったけど、じゃあどうやって1~99を判断するのかっていう疑問が浮かびますよね?
これ、最終的には「勘」です。
学校で教えていて生徒が「なんとなく」や「勘」で答えるケースは多いのですが、実はいろんな情報を観察し、色々考えて答えている場合がほとんどです。自分の考えや思考のプロセスを言語化できていないだけなんですよね。数学の証明でいきなり結論を書いてしまうようなものです。みなさんの勘もおそらく経験や知識からいろいろ考えた結果なので、ある程度信頼していいと思いますよ。
というか、正直1~99の細かな判断なんてどーでもいいんです。どんな・誰の情報も間違っている・偏っているという可能性を常に認識していれば。詐欺師だって何%かはまともなこと言ってますよ。
それよりも、情報源の数を絞らない方が圧倒的に重要です。数だけでなく傾向もですね。どんなにすばらしい人の話も99%しか信用できないのだから、じゃあ5人の話を聞けばいい。テレビに不安が拭えないなら、YAHOOやyoutubeでも調べればいい。・・・個人的にTwitterの信頼度は高くないですけど。でも高くはなくても調べればいい。ある1人だけを妄信するなんて愚の骨頂だということが分かりますよね。
逆に世の中だれも客観的でないと考えれば、少し楽になりませんか?「どの番組が言ってることが正しいのかしら」「こいつの言ってることは合ってるのか」じゃなくて、間違っている可能性を織り込み済みで情報を受け取れば、だまされることは絶対にないです。だってその可能性に自分は気づいていたんだもの。
とはいっても実際に何か行動するときは何らかのスタンスは取らなきゃいけないわけで。結局これも精度を高めるには慣れしかなくて、どこまでいっても自分の決定すら1%は疑うべきなんですが。
まあそれでも、このポイントを押さえればニュースを正しく読みやすいよ、というポイントを2つ紹介します。
ポイント①・・・「定義」
デマだったとか、根本的に間違っていた場合はどうしようもないです。そういう可能性もあるなと思ってあきらめましょう。そうじゃなくて、気を付ければ防げる可能性が高い誤解はなくしたくないですか?
ニュースを正しく読むうえで絶対に抑えなければならないことは、「定義」です。
「定義」とはまさにこれ(「」)です。
例えば、「コロナ」と聞いて何を思い浮かべますか?
今だと、間違いなく「新型コロナウイルス」ですよね。でも一般的にコロナとはただの風邪ウイルスの一種ですので、どちらを思い浮かべても間違いじゃないわけです。なんなら、パンの一種だと思った人もいるかもしれません(コロネだけど)。
こんな例を出すまでもなく、言葉にはいろんな意味が含まれます。辞書を調べると意味がいっぱい出てきますよね。専門用語もなんだかよく分からなかったりしますよね。
その複数ある言葉の意味をひとつに限定すること、もしくはされたものを「定義」と言います。
要は、同じ単語を使っていても違う意味を思い浮かべていたりするから、今この場ではこういう意味で使いますよっていう意思表示です。論文なんかだと「はじめに」とかに書いてあるような当たり前のことなんですけどね。でも人と話すうえでは省略されることが多いです。もちろん誤解してもすぐ訂正できるからとか、そもそも誤解しちゃったらしちゃったで大した問題じゃない内容を話すことが多いという理由もあるのですが。
大きな要因は、テンポが悪くなるからです。気づいた方もいると思いますが、この文章やたら「定義づけ」が多いです。だって1行目からだぜ。乗ってきたと思ったら説明、また説明、てな感じで、正直読みにくいと感じた人もいるかもしれません。
でも、ニュースを正しく読むうえでは必須です。
誤解を減らそうと思ったら、定義をしっかりしないといけないんです。「コロナって普通の風邪だよ」というのは正解だけど不正解なんです。
ニュース番組でコメンテーター同士が言い合ってたりするでしょ。でも聞いていると、あれ?話かみ合ってないな。というときあるじゃないですか。だいたい「定義」がずれてます。「言葉」の定義だったり「ゴール・目的」の定義だったりはその時々ですけど。
本来テレビは定義づけをしっかり行うべきなんですけど、時間のない中でそれがおろそかになることはよくあります。著名人の発信なんてその最たる例です。定義づけもせずインパクトのあることを言うんで誤解されて炎上するんです(誤解じゃない場合もありますけど)。
だから、受け取る側が気にして、しっかり判断しないといけない。「それどういう意味?」「この人はどういう意味でこの言葉を使ってるんだろう?」と。
これを常に意識するだけで、情報の受け取り方が大きく変わります。正反対だと思っていた2つの意見が、実は同じ方向を向いていた、とか、分岐点は設定したゴールの違い(感染者を0にするのか、医療崩壊しない程度に経済を回すのかなど)だった、とか、それだけで一段深い理解ができるようになります。
ポイント②・・・「自分で決める」
ポイント2つ目を何にするか正直迷いました。最初は「理由」にしようか、と思っていたんですが、最後はここに行きつくと思い、これに決定しました。
「自分で決める」です。
客観的などない、だからいろんな情報を受け取りなさい、と先ほど言いました。でも、結局どれが正しいのか分からない。どうすればいいの?と思う人もいるでしょう。
もう一度言います。「それ」を自分で決めなさい。今の時代、正解を教えてくれる人がいるなんて幻想は捨てるべきです!全知全能の神でもなければ正解なんてわかりません。でも、決めたことには自分で責任を取りなさい。
厳しいことを言っていますか?実は全然違います。
人間誰でも間違えるんです。他人も自分もその可能性を常に持っています。悪意があろうがなかろうが。では「嘘をついたAさん」と、「Aさんが言っていることを何の疑いもなく信じてしまった私」。どちらに対してむかつき、どちらの方が先に許せますか?なんなら、どちらを改善するのが楽ですか?
他人の行動を変えるのは、使う労力のわりに難しく、効果も弱いです。それをしてくれる親はありがたいのですが。それよりも圧倒的に自分の行動を変える方が楽です。だって「すれば」いいだけですから。
あ、ここでいう話ではありませんが、他人でも自分でも「性格・人格」を変えるのはあきらめましょう。まず無理だと思います。変わらないとは言いませんが、変わるとしても、勝手に・いつの間にか、だと思います。
ニュース・情報を受け取り、それを受けて行動するのは、1回こっきりの話ではありません。絶えずしています。まれに犯してはならない失敗はありますが、基本的には1度のミス(誤情報を信じるなど)に一喜一憂したり不安になるよりも次に同じミスをしない方が、人生をトータルで見た時に失敗の数を減らすことができるでしょう。
そのためには、自分で決める。何をどのくらい、どのように信じるかは自分で決める。そうすれば、改善ポイントが見えやすくなり、実際に改善するのも簡単です。
これが、誤解を減らしながら、得た情報をもとに行動もでき、なおかつ心の安寧(不安の減少)も得られるニュースの読み方です。
まとめ~批判的思考と納得~
始めの方に、「テレビは信用できないから観ない」という姿勢はダメだ、ということを書きました。何がダメなのか、もうお分かりだと思います。
テレビの情報を100%信じることはもっての外ですが、それイコール信じてはいけない、ではありません。100%信用できないからといって情報源から除外していくと、最終的には何も残らなくなります。
だから、何に対しても1%は疑いを持ち、最後までその疑いを捨てないでください。自分に対してもです。ひょっとしたら自分も間違えているかもしれない。その批判的思考を前提に、行動を組み立てるのです。基本は自分が合っているつもりで行動するけれども、万が一違った場合の保険も用意しておく、みたいな感じです。
できるかぎり自分のセンサーの精度を高めるために、まずは定義を確認しましょう。ここがズレているせいで誤解が生まれるのは、とてももったいないことです。
そして最後は自分で決める。最終決定権は手放さない。権利があるということは責任もありますが、責任をとって行動を見直すのはものすごく簡単です。
要は、「ニュースを正しく読めているかどうか」というのは、合ってるか間違ってるかという次元ではなく、自分が納得できるかどうかにかかっているよ、というお話でした。
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